雪の夢窓国師作の庭園

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多治見市長瀬の臨済宗南禅寺派の虎渓山(こけいざん)永保寺(えいほうじ)は、
夢窓国師(夢窓疎石 むそうそせき)を開祖、仏徳禅師を開山とする名刹で、美濃三道場の一つで す。
また数多くの文化財があり、うち観音堂と開山堂は国宝に指定され、わが国の建築史上 貴重な遺構とされています。
永保寺の創立には、次のような伝説があります。 修業の地を求めて巡錫(じゅんしゃく)をしていた夢窓国師が、美濃・長瀬山の山中で道 に迷い、
どうしたものかと思案していますと、谷川沿いに白馬にまたがった美女が現われ、 こつ然と姿を消しました。
国師が祈るとさきほどの美女が黄金の小仏像になって、大きな岩 の上に出現しました。これこそ仏のお告げだとして国師はこの地に草庵を結ばれました。
夢窓国師は、長瀬山で修業一筋の日を送りました。
やがて国師の名声を聞き、多くの修行 者が訪ねてくるようになって、国師は応接の煩わしさを避け、幽居の地を求めて庵を出ます。
しばらくの間、美濃の各地を行脚し、再び長瀬山の庵に帰ってきましたが、法弟の仏徳禅師 に後を託して去りました。
それは長瀬山に庵を結んでから約4年後のことです。 国師は長瀬山の地を中国の聖地「虎渓」にあやかり、虎渓山と名付けたといわれています。
庵を結んだ翌年の正和3年(1314)に、今の観音堂が建てられ、夢窓国師が亡くなった 翌年の文和元年(1352)に開山堂が建てられたとされています。
この地の領主で、後援 者だった長瀬入道あての国師の手紙には、「あなたのお許しをこうむり独住いたし忘れがた く候」とあります。
それほど国師はこの地が気に入ったのです。 ところで、永保寺の中心的な観音堂は、桁行(けたゆき)三間・梁間三間で、重層に見え ます。
これは裳階(もこし)が張り出しているためで、一重の入母屋造なのです。
中央須弥 (しゅみ)壇上の岩窟式厨子(ずし)には、本尊の聖観音菩薩坐像が安置されています。
大 ぶりな軒ぞり、建物全体からくる安定感など、鎌倉末期の唐様建築のなかに和様建築の手法 も取り入れるなど、同時代を代表する最古の名建築といえます。
開山堂は礼堂(らいどう 外陣)と祠堂(しどう 内陣)、それをつなぐ相(あい)の間 からなり、神社建築の権現造(ごんげんづくり)の原型といわれています。
礼堂は桁行三間、 梁間三間、入母屋造で強い軒ぞり、軒裏の扇垂木(おおぎたるき)、組物の三手先詰組、
両 開きになった桟唐戸(さんからど)の扉などを持ち、純正唐様建築とされています。 また、祠堂は桁行一間、梁間一間、一重裳階の入母屋造です。
ここには開祖夢窓国師、開 山仏徳禅師の木像や、当時の石造五輪塔が安置されています。
足利尊氏(あしかが たかう じ)によって建てられたと伝え、現存する開山堂としては最古のもので、権現造の祖型です。
また、観音堂前の庭園は国師の手になるものといわれ、国の名勝に指定されています。

開山夢窓国師 【夢窓疎石 ムソウソセキ ・ 1275‐1351】
 俗姓は源氏。宇多野天皇九代の孫。伊勢に生まれ、6歳はじめて仏教を学び正応5年受戒されました。
永仁2年(1294)建仁寺の無隠禅師に師事し、以後鎌倉の建長寺・円覚寺等に参学しました。
足利尊氏に要請され天龍寺の開山となる。観応2年(1351)77歳で示寂。
貞和2年(1346)、夢窓正覚心宗国師の号を賜る。後、歴朝より普済・玄猷・仏統・大圓等の国師号を追贈された。


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